幕末の会津戦争で女たちの覚悟を見た~福島県会津若松市でひとり旅
ピンポイントでひとり旅が楽しめるお勧めの観光地やスポットを「ピックアップ!ひとり旅」と銘打ってご紹介いたします。
今回は福島県会津若松市。
テーマは「幕末の会津戦争で女たちの覚悟を見た」です。
- ピンポイントアドバイス「会津戦争の拠点・鶴ヶ城」
- これがおススメ「集団自決の道を選んだ西郷千重子」
- これがおススメ「壮絶に戦い、散った中野竹子」
- マニアックな情報「近藤勇の墓が会津にあった!」
「ピンポイント」の意味については、こちらで解説
会津若松市は、福島県内でも人気の観光地ですが、幕末の会津戦争で数々の悲劇を生んだ地に思いを寄せて訪れる人も多いです。
白虎隊による集団自決に代表されるように、会津戦争は男たちだけでなく、少年や婦女子にも多くの犠牲を生みました。
また、大河ドラマ「八重の桜」で描かれたように、新島八重は鶴ヶ城籠城戦で鉄砲を使って奮戦していますし、敵と勇敢に戦った娘子隊は今も語り継がれています。
今回の「旅先ピックアップ」では、女性に視点を当てながら、会津戦争の史跡を巡ってみましょう。
今回は紹介していませんが、家老の妻・神保雪の最期も涙なくしては語れません。
捕らわれの身となった雪は、居合わせた土佐藩士に「短刀を貸してほしい」と頼み、藩士が短刀を渡すと、喉元を突いて自刃したといいます。藩士は、その見事なまでの潔さを後世に語り継いだそうです
⭐ ピンポイントアドバイス「会津戦争の拠点・鶴ヶ城」
会津藩の居城だった鶴ヶ城は、会津戦争での降伏によって破却されましたが、昭和40年に再建され、観光のシンボルとして見事な威容を見せています。
鶴ヶ城の籠城戦で女性たちを鼓舞していたのは藩主の義姉・照姫でした。照姫は、自分の衣装を包帯代わりに使うよう指示するなど、女たちの精神的支柱でもありました。
また、鉄砲隊の一員として銃撃戦を繰り広げていたのが山本八重、のちの新島八重です。砲術家の子として生まれた八重は、誰よりも鉄砲の名手だったそうです。
会津若松市の史跡巡りの際、拠点となる鶴ヶ城。時間をかけてゆっくりと散策してください。
✔️ これがおススメ「集団自決の道を選んだ西郷千重子」
会津戦争で鶴ヶ城に籠城した人たちとは別に、城に入ることを拒んだ人たちもいます。その代表的なのが家老の西郷頼母の一族でした。
頼母の妻の千重子は、戦場に赴いた夫ら男たちに代わって西郷家を守っていました。やがて敵(官軍)が城下町へとなだれ込んできたのです。
会津には誇り高き武士道があります。それゆえに「降伏して辱めを受けるより、死んで名誉を守る」という選択をさせてしまったのです。
千重子をはじめ、姑や妹、幼い娘たちなど一族21人は自刃して果てました。西郷邸は戦争で焼失し、邸宅跡には碑が建てられています。
✔️ これがおススメ「壮絶に戦い、散った中野竹子」
照姫を護衛する目的で、女性たちによって組織されたのが「娘子隊」でした。彼女たちは、日頃から薙刀など武芸の稽古に精進していました。
そのなかに中野こう子と娘の竹子・優子姉妹がいました。とくに中野竹子は容姿端麗ながら文武両道に優れた女性だったそうです。
野戦の真っただ中で官軍と死闘を繰り広げた娘子隊でしたが、竹子は運悪く銃弾に倒れ、瀕死の重傷を負ってしまい、妹の介錯で戦場に散りました。
辞世の句「武士の猛き心に比ぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」を詠んだ凛々しい竹子の像が、戦死した地に建てられています。
🉐 マニアックな情報「近藤勇の墓が会津にあった!」
会津藩と女性をピックアップしていますが、ここで一人だけ男性を取り上げます。
幕末の京都で会津藩のお預かりとして活動していた新選組の局長・近藤勇です。
近藤は新政府軍によって、東京の板橋で処刑されましたが、彼の墓が会津若松市東山の天寧寺裏手の静かな里山の中にあるのをご存じでしょうか?
一説によると、会津藩へ援軍にやって来た新選組副長の土方歳三が、近藤の遺髪を埋葬して墓を建立したとされています。
近藤勇の命日(4月25日)には墓前祭りが行われるそうです。新選組ファンはもちろん、歴史好きの方も、お墓参りに訪れてみてはいかがでしょうか。
会津若松の観光を「幕末」と「女性」に絞ってご紹介しましたが、ほかにも見どころが豊富。ラーメンと蔵の街の喜多方市とセットで、ひとり旅をプランニングしてみませんか。