旅道楽なコラム「特別編」~語り部タクシーで東日本大震災被災地・仙台市を巡る

ひとり旅のエピソード、失敗談、感動秘話などを綴る旅道楽なコラム。今回は特別編として、「語り部タクシーで東日本大震災被災地・仙台市を巡る」のタイトルで、2014年5月に宮城県仙台市で語り部タクシーに乗車した時のレポートを掲載します。

※このレポートは、ホームページ版「旅道楽ノススメ」で公開してきたものです


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まえがき

東日本大震災から3年ちょっと過ぎて、ようやく被災地を訪れることができた。津波による壊滅的な被害を受けた仙台市宮城野区の蒲生地区、同若林区の荒浜地区は、今ほとんど何も残っていない。人々の生活が一瞬にして奪われ、復興への道筋すらままならない両地区。「まちが消えた」とつぶやくよりほか言葉が見つからなかった。

 被災地訪問の際に利用したのが、宮城県タクシー協会が運行している「語り部タクシー」であった。NPO法人宮城復興支援センターの講習を受けたドライバーが被災地を案内し、ガイド役も担ってくれる。震災当時のようすだけでなく、被災地が今どうなっているのかも教えてもらうことができた。

 語り部タクシーは仙台中央タクシーを予約し、2時間の貸切で被災地を案内してもらうことにした。

 

仙台市蒲生地区

 最初に訪れたのが蒲生地区である。ここは北側に仙台港という大きなターミナルがあり、南側には七北田川が流れている閑静な住宅地だった場所だ。海岸線には蒲生干潟という自然豊かなところがあって、震災前はバードウオッチャーなど観光客も訪れていたそうである。それほど大きくない集落ではあったが、津波によってすべてが灰燼に帰したとのことだ。

 ドライバーのSさんは最初に、地元住民が建てた慰霊塔に案内した。まずはここで手を合わせてほしいとのことである。被災地を訪れるわけだから、それは当然の行い。簡素ながら、地元の方の思いが伝わってくる慰霊塔で合掌した。その先には荒れ地が広がっているが、一帯はもともと住宅地だったところである。家の土台だけが残されているのみだ。

 蒲生地区は海からだけではなく、七北田川をさかのぼってきた津波の両方から襲われたそうである。慰霊塔の駐車場向かいに広大な更地があるが、ここは中野小学校が建てられていた土地だという。当時、周囲には大きな建物といえば小学校しかなく、ここに大勢の住民が避難してきたという。

 町内会の方がまとめた冊子が慰霊塔にあり、一部いただいて読んでみた。そこには住民が着のみ着のままで命からがら逃げ込んできたようす、七北田川が引き波によって川底まで見えて身震いしたという状況、津波で住宅地が襲われるのをただ茫然と見るしかない住民、そのようすに悲鳴を上げる人たち、まさに地獄絵そのものである。小学校も1階が完全に水没して機能を失い、それもあってか建物が壊されることになったようだ。

 慰霊塔の近くに、お地蔵様が鎮座されていた。津波で流されながらも、住民の手によって復元され、建屋もつくられてまつられている。先ほどの冊子の著者は、この地蔵様が小学校に避難した人々の命を救ってくださったと信じたい、と記している。

 Sさんにもう少し海岸線に近いところまで案内してもらう。住居の土台だけが残る場所に黄色いプレハブが建てられており、そこに「しんりをもとめて このちをのこす」など、さまざまなメッセージが壁に記されていた。住民らしき人はいたが、あえて声はかけずに堤防をよじ登って海を眺める。

 今はもちろん穏やかな海岸線なのだが、これが津波で荒れ狂った。まさに人知を超えた災害だったのだ。仙台港寄りには工場らしきものが再建されつつあるが、住宅地を再興するというところまでは至っていなのだろう。とまあ、その時は思っていたのだが、実は再興したくてもそうはいかない事情というのがあった。それは荒浜に訪れたときに改めて記す。

 被災地には土台だけの場所ばかりではなく、津波で流されなかったまでも家の中がめちゃめちゃに壊れ、再起不能のまま取り残された建物が点在している。そのうちの1軒の近くまで案内してもらったのだが、家電などがころがったままになっていて何ともむごたらしい状況だ。

 ところがSさんが言うには、津波被害に便乗して不要になった家電を捨てていく者がいるそうである。確かによく見ると、大型の冷蔵庫やテレビが複数ころがっている。1軒の民家にそんなに冷蔵庫やテレビがあるはずがなく、そうしたモラルのかけらもない、いわば火事場泥棒的な輩がいるという事実を知り、むなしい思いにかられたのである。


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仙台市荒浜地区

 蒲生地区から県道10号線を南に走り、次は荒浜地区を見学する。集落から離れると県道沿いにあまり家はなく、田んぼや畑が広がっている。ただ、作付けをしているところはあまりない。このあたりも津波の影響を受けたうえに、海水がなかなか引かなかったので耕地に塩分が残されてしまった。そのため、除塩という土壌改良をしなければ作付けを始めることができなくなったのだ。当然、その費用というのもかかるため、農業をあきらめてしまう農家もおり、耕作放棄地が広がっているのも別の側面で被災地の深刻さをうかがわせる。

 海沿いにある荒浜地区に入っていく信号機を左折すると、右手に小学校の建物がポツリと見える。その先はどちらを向いても広く空いている土地だけである。ここが荒浜地区で、震災前は住宅が建ち並ぶ地域だった。今は小学校を除くと建物はまったくない。表現するならば「まちが消えた」としか言いようがない地域になっている。ちなみに、信号機の近くにはコンビニエンスストアがあるが、プレハブの仮店舗で営業していた。

 Sさんはここでもまず慰霊塔に案内してくれ、最初に手を合わせてもらうよう求めた。荒浜の慰霊塔は背後に大きな慈母観音様が控えており、被災地であることをいやがおうにも実感させる。近くにある慰霊碑には、津波で亡くなった方の名前が刻まれている。ほとんどが高齢者であるが、そのなかに2歳、3歳などという幼児の名前もあって非常に気の毒である。荒浜も100人を超える死者が出ているが、とくに震災直後の報道で「荒浜の海岸に200体以上の遺体が流れ着いている」という断片情報が流れた時は耳を疑った。(後に誤報と判明したそうだ)

 荒浜は海水浴場があるまちとして知られ、仙台市内から多くの海水浴客が訪れる場所だった。ところが震災によって壊滅的な被害を受け、周囲は遊泳禁止になってしまった。その海岸で昨年、高校生が溺れて亡くなったという話をSさんから聞いた。私は津波によって海底が一変し、海流が大きく変わってしまったのだろうなと思ったのだが、Sさんは「(霊に)引っ張られたんじゃないかな」とつぶやいていた。たくさんの遺体が流れ着いた海岸を見た人たちは、どんな思いだったのだろうか、想像することはできない。

 被害を受けたのは建物だけではなく、防砂林の松林も軒並みなぎ倒されている。高い丈夫な木はさすがに残っているが、それでも海水をかぶったと思われる場所は枝葉が付いていない。その位置を見るとゆうに10メートルは超えており、津波がいかに巨大だったかを物語っている。

 松林と海岸線といえば、日本のあちこちに見られる美しい海の風景が頭に浮かぶ。震災前に来てみたかった、というのはあまりに勝手な言い分だろうか。ちなみに現在は、海岸で防潮堤やら松林の再生作業が行われ、Sさんも「こんなにたくさん重機が入っていたのか」と驚くほど、工事があちこちで進められている。そのため、海岸へは立ち入ることができない。

 近くの仮設小屋みたいな場所で写真パネルを展示しているところがあり、そちらを見学する。かつての荒浜地区のまちなみや震災当時のようす、被災後間もないころなどの写真が並んでいた。まちなみはごく平凡な郊外の集落で、日常生活が突然の巨大地震と津波であっという間になくなってしまった。冒頭の私のつぶやきではないが「まちが消えた」ということになるのだろう。

 ヘリコプターが撮影したのだろうが、荒浜小学校屋上に避難する人たちと津波の写真を見ると、小学校1階部分まで濁流に襲われたことがわかる。とてもじゃないが、想像できるような光景ではない。後ほど小学校の建物を近くで見せてもらったが、廃校というにはあまりにもすさまじい姿となっている。近くにあった体育館も撤去されてしまい、小学校のみが往時を物語るものとして残っている。蒲生地区では建物の撤去を決断したが、荒浜地区はあえて小学校を遺物としているのかもしれない。

 仙台市は荒浜地区をはじめ、津波被害地域の再建のため、土地のかさ上げを進めているという。県道10号線もかさ上げしたうえで道路改良がされるそうだ。むろん、今回のような巨大津波は防ぎようがないが、数十年に一度レベルの津波には対処しようという考え方らしい。ただ、そのために沿岸部は災害危険区域に指定され、住民が戻りたくても戻れない状況になっている。

 荒浜地区では有志住民が地域再建のための運動を行っており、そのシンボルが黄色いハンカチである。跡形もなくなった住居跡にポツリポツリと黄色いハンカチが掲げられているが、これらはいつか戻ってくるという強い意志の現れである。津波防災と住民の暮らしのどちらを取るか、なかなか難しい問題ではある。ただ、住宅の土台部分だけを残し、消えてしまったまちを再建するためには、いずれにしても10年スパンの年月がかかることは言うまでもない。

 

あとがき

 蒲生、荒浜の2地区を案内してもらい、改めて震災の津波被害の恐ろしさ、そして3年2カ月たっても復興の芽すら見えない状態というのを目の当たりにすることができた。

 帰りのタクシーでは、楽天イーグルスのことや飲み屋の話など、観光向けの話題が中心となっていたが、そのなかで復興の話になったときSさんは「東京オリンピックが近くなると、そちらに建設業者などが行ってしまうのではないか」とつぶやいた。私もSさんの心配はもっともだと思っており、五輪決定を喜ぶ報道を聞きながら「でも、もっとほかにやることがあるだろう」と感じたほどだ。被災地を歩いてみると、余計にそれを実感した。

 

※このレポートは2014年5月にまとめたもので、すべて当時の様子です。現在は大きく様変わりしていると思われます

 

語り部タクシーについては宮城県タクシー協会のサイトをご覧ください


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